2026/08/03 21:58

「古着が好きだ」と言うと、年代やブランド、希少性の話だと思われることが多い。
もちろん、それらも古着の面白さの一部ではある。けれど、私が最後に見ているのは、布の表情や着たときの輪郭、そこに残された手と時間の痕跡だ。
古着は、一度誰かの身体のそばで時間を過ごした服である。
日に焼けて少しずつ変わった色。擦れた袖口。皺の癖。小さな傷や、誰かが繕った跡。同じ型番の服であっても、長く着られた二着がまったく同じ姿になることはない。
私はそれらを、新品の状態から何かが失われた結果だとは思わない。時間が加わったことで、その一着にしかない姿になったのだと思っている。
服の形には、それぞれ理由がある。
軍服には身体を守り、道具を運ぶための機能があり、ワークウェアには働く人の動作が刻まれている。仕立服には社会のなかで身体をどう見せるかという考えがあり、民族衣装には土地の気候や暮らし、祈りや美意識が残っている。
現代の服も、そうした源流が何度も交わり、別の形に組み直されて生まれている。
なぜここにポケットがあるのか。なぜこの布が使われたのか。なぜこのような輪郭になったのか。背景を知ることは、知識を集めるためではなく、目の前の一着をより深く見るためのものだ。
古い服を実際に着ると、こちらの身体も少し変わる。
重いコートを羽織れば立ち姿が変わり、ゆったりとしたパンツを穿けば歩幅が変わる。薄い布靴を履けば、忘れていた足裏の感覚が戻ってくる。服は人に着られるものだが、人の身体もまた、服によって静かに動かされている。
私は、服を一方的に「着こなす」というより、服と身体が互いに馴染んでいく感覚が好きなのだと思う。
傷めば繕い、弱くなったところには手を入れる。色が抜ければ、その褪せた姿を楽しむこともあれば、もう一度染めることもある。
それは、服を新品だった頃へ戻す作業ではない。
それまでの時間を消さずに、自分の手と暮らしを少しだけ重ねることだ。修理した跡もまた、その服がこの先へ残っていくための、新しい時間になる。
犀角舎は、もともと増えすぎた私の服を整理するために始めた。
けれど、服を撮り、背景を調べ、言葉を書いて並べていくうちに、私は自分が古着を「売りたい」のではなく、「並べたい」のだと気づいた。
名のあるブランドも、名のない手仕事も、私が見るところは変わらない。素材の表情がよいか。輪郭に心を惹かれるか。人の手や、その土地の暮らしが感じられるか。そして何より、自分でも身につけたいと思うか。
面白いものを、面白いと思う人の目に触れる場所へ置いておきたい。無理に勧める必要はない。誰かが静かに眺め、心を留め、そのまま連れて帰ってくれたなら、それでよい。
古着は、過ぎ去った時代の遺物ではない。
誰かが過ごした時間を受け取り、いまの身体で着て、自分の時間を少し重ね、やがてまた次へ手渡していく。その流れのなかにある限り、古い服はまだ生きている。
新しいものだけが、未来へ進むのではない。
古いものと、手仕事と、時間のものがたり。
私はこれからも、その途中にあるものを静かに見つめ、着て、直し、並べていきたい。

